集団の中の孤独
周りには人はたくさんいるし、はた目からはうまくなじんでいるように見える。
でも、自分になかでは「じんわりと寂しい」という感覚が常にある。
こんな感覚あるのある人、結構いるんじゃないかな?
そういう私もその一人です。
なんでこんな感覚が湧いてくるのか?
それは自分の感じたままに話していなかったり、伝えていなかったり。
こんなことを子供のころから繰り返していると本当に自分の感じていることが
自分でもわからなくなっちゃって、周りに人はいるのに「じんわりと寂しい」
を感じている自分に✖を出している状態。
寂しいのにさらに自分自身に✖を出しているからさらに苦しいよね。
日本は同調圧力が高くて、学校教育や地域、古い体質の会社などでは人と同じように
感じたり、行動したり、考えたりすることを求められる。
「ふつう」とか「みんな」とかいう言葉に象徴されるよね。
そうすると自分の中で「ふつう」とか「みんな」に反する感覚や考えがあると
それを感じないようにして合わせないと集団に所属できない。
先日、僕はこんなことを体験しました。
住んでいる地域のボランティアで木の伐採作業を町会でやる。
最長老の方が僕に気分よく話をしていたので、僕たち別の場所で作業を終えた数人が
その方の話をずっと聴いていた。
そしたら長老NO2の別動隊の隊長にあたる男性が僕に
「いつまで食っちゃべっているんだ!まだ終わっていないんだから手伝え!ばかたれが!」
ってすごい勢いで怒鳴ったんだ。
これって僕にも言ったけど、僕よりはるかに年上の数人に言った言葉
と~ってもイヤな気持ちになったよ。
地域のボランティアだとよくある光景
みんな「いやだね~」って目くばせをするけど
本当に感じたことは言ってはいけないという空気感
昔だと怒られると自分の中に起きたことを無視してすぐさま行動していた。
まるですべて自分が悪かったように受け止めて。
今は自分の中で、ものすごく怒りを感じたのを覚えている。
僕たち数人は別の場所で割り当てられた作業をすでに終えている。
その場所にもたくさん人がいたけど、作業が終わったのでみんなその場から自宅に帰っている。
僕たち数人はまだ別の場所の人が作業しているのに自分たちの作業が終わったから自宅に帰る
では申し訳ないから、別の作業隊が終わるまで解散を待とうと合流したんだ。
そんな状況を何一つ聞かないで、知らないで怒鳴る別動隊の隊長
そもそも、その方の計画が悪くて大幅な遅れが生じている。
怒鳴られるべきは本当に僕たちだったのだろうか?
ただし、この集団では発言権は長老たちにしかない。
ビックリするでしょ!
10年以上前に、「何か意見がある人は?」
と聞かれたので、手を挙げて発言したら「10年はやい!」
とすぐさま却下された。
それ以来、この集団では感じないように鋭意努力している。
10年たってもいまだに発言権はない(笑)
長老たちは若い人がいないって嘆くけど、そりゃ~いなくなるよね。
上の人の意見に上手に合わせられる人は重宝される。
この辺をうまくできる人はうらやましい。
うまくできない僕はいつも孤独を感じてる。
これが集団の中の孤独
周りに人はいるけど、心を開いて話せる人がいない。
これはたとえで、僕の経験を出したけど多かれ少なかれ
集団で過ごすと味わなければならない「ふつう」と「みんな」
みんな、もくもくと作業をこなす。
効率的なのかもしれないけど、所属したくない集団だよね。
昭和には必要だったかもしれないけど、今の時代を生きる人には大いに疑問が残る。
地域密着で仕事をしている手前、参加せざる負えない自分が悲しい。
それまでは、何とか自分をごまかしてきた。
もう自分に嘘がつけないから困っている。
イヤなもんはイヤだ。
子供みたいな、自分の感覚を大切にしたい。
だから、なんのしがらみのない、しかし、古い町並みと空気感がある
海も山もある自分がご機嫌でいられる鎌倉で仕事のベースを
創りたいんだなって思う。
自分がご機嫌でいられるって仕事をするうえで大事だよね。
理由のない「なんとなく」も大切にしている。
直感でいいと感じているんだもんね。理由は頭で理解するための後付け
セラピストの仕事は自分が自分であることがとても大切だと感じてる。
そんな人だからこそ、クライアントさんがありのままの自分をさらけ出しても
安心や安全を感じられる。
忘れていた自分自身の感覚を想い出したり、話したりできる。
仕事という役割ではなくて
常に自分でありたいと思う。