選択的な正直さ いいか?悪いか?ではなくて、どちらでもいい。主体的に生きることで人を尊重できる。
JAGT日本ゲシュタルト療法学会 第12回大会
に参加した。
ナンシー・アメント-リヨン博士 の
基調講演 「気づき、選択、そして生きる」
の中で語られた
「選択的な正直さ」という言葉が
僕の中で気になった。
ちょっと聞き慣れない言葉
だから、これが正解というのはないと思う。
そもそも、ゲシュタルトでは、
こうでなくてはならないというスタンスは取らない。
僕が感じたのは、
自分の中にある本音に正直に選択する
というふうに捉えた。
もちろん、これが正解でも、不正解でも
なくて、僕はこの言葉をこう捉えた
というだけ。
そして、自分の中にある本音に気づく。
自分自身に正直になる。
コロナのようなことが起きたときに、
どういう選択を取るか?
社会的にこれが正しいという
価値観を選択するか?
あるいは、自分の感覚に従って
何かを選択するか?
このときに、社会に適合するように
正直さの中にも選択の余地がある。
つまり、どちらが自分が生きやすいか?
ここでいいたいのは、最終的に
自分の選択に責任を持つこと。
たくさんの情報の中で、
自分の感覚にフィットするものを
選択すること。
いいか?悪いか?ではなくて
声高にどちらがいいと主張するのでもなくて
自分の選択に、自分で責任を持つ。
だから、どのような選択でもよい、
というように感じた。
もちろん、法的に決まっているものは
遵守するとしてね。
ここが、どちらでもいい
とするときに、初めて、他人の価値観を
受け入れることができる。
人の考えを尊重できる。
そして、人と人とが争うことが
なくなっていく。
ウクライナのことも語られていた。
ゲシュタルトの哲学を学ぶことで
より広い考えを受け入れられる。
平和を願っている気持ちを感じた。
自分の人生を主体的に生きる。
目の前にいる人はその人の人生を
主体的に生きている。
自分自身を生き切ることで
人を尊重できる。
フリッツパールズやローラパールズから
直接学んだナンシー博士は
人の在り方を伝えてくれているんだなぁ
って感じる基調講演だった。